2025.10.16
コラム/エッセイ「漆のこころ」 第3回 なおしもん
中根多香子=YUI JAPAN主宰、NPO法人ウルシネクスト理事

左が修復前、右が修復後(筆者提供)
◇欠けた日の記憶
うつわが欠けた日。それは初春の朝のことでした。祖父から受け継いだそのうつわは、繊細な沈金が施された麗しい蓋(ふた)もの。菓子入れとして、時には花をあしらい、暮らしを彩るお気に入りです。ところが、ふとした弾みに家族の服の裾が触れ、棚から落下。蓋が欠けた瞬間、時が止まったように感じました。
幼い頃に祖父と歩いた、輪島の朝市通りの面影が失われたさなかのこと。
慌てる家族に「大丈夫、輪島塗は直せるから」と声をかけながらも、かけらを拾う手はふるえ、心の奥には大きな穴があいたようでした。
◇うつわとの再会
それから1年が過ぎた頃、再び歩みを進める、なじみの塗師屋さんとお会いする機会がありました。欠けたうつわをお見せすると、「もちろん、お直しできますよ」と、迷いのない言葉が返ってきたのです。そのひとことに、気持ちがふっと和らぎました。
そして半年後。届いた包みをそっとほどくと、そこにはかつてのままの祖父のうつわがありました。どれほど目を凝らしても、欠けた跡は見つかりません。表面はなめらかで、指先でなぞっても継ぎ目すらわからないほど。淡い光を宿すうつわを手に包むと、心の奥からあたたかさが満ちて、涙があふれました。欠けたうつわと、失われた景色が重なって見えたのかもしれません。
◇伝統の技と誇り
程なくして訪れた輪島塗の工房展で、久しぶりにお会いした若い職人さんと立ち話をしていた時のこと。ふと祖父のうつわの話題になると、その職人さんが笑顔でこう言ったのです。「そのうつわ、僕が直しました!」
驚く私に、職人さんは修理の過程を語ってくださいました。
かけらを漆で継ぎ合わせ、沈金の細やかな文様には触れぬよう、内側から丁寧に補強。幾度も塗りと研ぎを繰り返し、強さと輝きを取り戻すまで時間をかけて仕上げたそうです。「難しいぶん、直しがいがありましたよ」。そう言って笑う職人さんの目には、穏やかな誇りがにじんでいました。
輪島塗は丈夫に作られていますが、長く愛用すれば、ヒビや欠けに見舞われることもあります。傷みの度合いに応じて工程をさかのぼり、一つの欠けを埋めるために注がれた根気と手間。そこには、受け継がれた技と、作り手の思いが込められています。
◇なおしもんがつなぐ未来
輪島では、このような漆器の修復を「なおしもん」と呼びます。「壊れたから終わり」ではなく、直して、継いで、生かしていく─。そこには、古くから大切にされてきた「つなぐ心」が、今もたしかに息づいています。欠けたものがもう一度息を吹き返すとき、私たちは、人と人をつなぐ深い絆に気づかされます。
なおしもんは、うつわをよみがえらせるだけでなく、人の心にもそっと灯(あか)りをともすもの。それは、未来へとつながる小さな祈りのかたちなのです。
カテゴリー: コラム/エッセイ
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