2024.09.05
コラム/エッセイ宙ちゃんの「伝統文化一直線」 第11回 偶然の美
近藤宙時=日本伝統文化検定協会理事
備前焼の焼成作業。「窯変(ようへん)」を狙って窯に炭を入れる。炎の作る文様は、置かれた場所の違い、炎の当たり方、灰の降りかかり具合で、一つとして同じものはなく、偶然の美の極致とも言える。
(一般財団法人 伝統的工芸品産業振興協会「伝統工芸 青山スクエア」の映像「手技TEWAZA『備前焼』」から)
まずは、こちらのリンクから、五島美術館(東京都世田谷区)が所蔵する、ある有名な陶器(重要文化財)の写真をご覧ください。
「破袋(やぶれぶくろ)」と名付けられた伊賀焼の水差しです。名前の通りに下部が大きく割れています。しかも、大きな力で下に向けて押しつぶしたように、全体に大きくゆがんでいます。恐らく小石と思われるブツブツもあちこちに見えます。緑色の自然釉(ゆう)も一様ではなく、濃淡があります。どうひいき目に見ても失敗作です。とても売り物になるような代物ではありません。即「廃棄処分!」と決めてかかるのが普通の感覚ではないでしょうか。
ところが、これは、豊臣秀吉、徳川家康と2代にわたって茶頭(さどう)を務めた戦国時代随一の大名茶人古田織部(ふるた・おりべ)が「今後是程(これほど)のもなく候」と最大級の賛辞を贈った名品中の名品なのです。こんな歪(いびつ)な物を「不世出の名品」とたたえる感覚が日本の伝統文化には脈々と流れています。皮膚感覚にまで昇華した、物を見る時のこうした態度と言うか、鑑賞法にこそ、日本の伝統文化の唯一無二性があるとさえ思っています。
「作為がある」、あるいは「作意が見える」という言葉があります。「作者の意図が見え見えだ」と感じる時に使う言葉で、良い意味で使われることはまずありません。それが当然のことだと日本人は思っています。しかし、考えてみると不思議なことです。
芸術家であれ、職人であれ、人が何かを作る時には当然「こういう物を作りたい」という意図や思いがあるはずです。それなくして人が物を作ることはありません。物を作る時の作者の思いが、その作り出した物に如実に表れてこその「作品」でしょう。作品なのだから、「作為がある」のは当たり前のはずなのです。恐らく西洋的なものの見方では、「作意が見えない」物はダメな作品であり、「作意が見える」、「作意が如実に表れている」作品こそが評価されるべきものということになるのではないでしょうか(宙ちゃんは西洋人ではないので、あくまで勝手な推測ですが)。
「作為がある」の反対語は、当然のことながら「作為がない」です。そして、「作為がない」とは「自然に任せた」ということになります。この「作為がない」ことを尊ぶ感覚の底には、「人の作為は自然には及ばない」という考え方があるように思います。自然が作り出す形や色に対する繊細な美意識と言い換えてもいいでしょう。花を美しいと思うのはもちろんのこと、風に揺れる木々から、崩れる高波、横殴りの雨にまで日本人は美を見いだしてきました。
冒頭で紹介した「破袋」は、たまたま自然の重力でへしゃげてしまった水差しをそのまま焼成したものです。しかも焼成温度が高過ぎて亀裂が入ってしまった。そのへしゃげ方、亀裂の入り方が絶妙で、素晴らしく絵になる。こんな偶然は二度とないだろうという意味で、古田織部は「今後是程のもなく候」と激賞したのだと推察します。
織部は、有名なへしゃげた茶碗「沓形(くつがた)茶碗」を生み出しました。もちろん、そこにわざとらしさがあってはいけません。「作意が見え」ては台無しになるのです。作者は「こういう物を生み出したい」と意図を持って作るのですが、最後の部分は自然に任せる。それが、日本の伝統文化の物作りの姿勢であり、鑑賞する時の視座なのだと思います。
「破袋」が最高傑作と評価されたのは、20世紀の抽象表現主義を代表するアメリカ人画家、ジャクソン・ポロックが生まれるはるか昔のことでした。水墨画の「たらしこみ技法」、備前焼の「ひだすき」や「ぼたもち」、修理法としての「金継ぎ」、さらには庭の借景など、人の技と自然が一体となった美の伝統は、まさに日本独自のものだと言えるでしょう。
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