伝統文化を知る

2024.09.26

コラム/エッセイ

宙ちゃんの「伝統文化一直線」 第12回 野々村仁清と平賀源内

近藤宙時=日本伝統文化検定協会理事

野々村仁清の銘/純粋芸術としての陶芸を切り拓いた平賀源内(イラスト)

世界的なオークションで信じられないような落札額をたたき出す陶磁器の多くは、中国の清朝乾隆帝(けんりゅうてい)時代に官窯(かんよう=中国宮廷の窯)で作られたものです。イギリスで民家の屋根裏から見つかった粉彩の壺(つぼ)が68億円の値を付けたとか、同じく乾隆帝時代の青磁の筆洗(ひっせん)が30億円で落札されたとかいうニュースが時々流れます。ただ、こうした超高額の名品であっても、高台(こうだい=器の足の部分)裏には「大清乾隆年製」と刻印されているにすぎず、その作者名は分かりません。

清朝の官窯では分業制が敷かれ、特に皇帝が使用する磁器には、図案を描く絵師、磁器の材料を作る技師、それを成形するロクロ師、恐らく登り窯で焼く技師、焼き上がった磁器に上絵付けする絵付師等々、20もの工程それぞれにその分野の達人が携わっていたといいます。一つ一つの工程で最高の腕前になるにも長い修業期間が必要なため、1人の人間が全ての工程で最高の技術を持つことはできないという考え方から出たものでしょう。

最高の磁器を作り出すには、工程ごとの名人が協力する必要がありました。だからこそ、清朝時代の官窯の磁器は素晴らしく、後世においてまねのできないレベルに達したのです。しかし、それはあくまで官窯が作った磁器であり、誰か特定の陶芸家の作品ではありません。その意味では、現代の「〇〇窯製」の器と同じです。

日本はどうだったかというと、そもそも窯元の名前さえ記されてはいませんでした。陶磁器は工芸品の中でも生活に欠かせない実用性の高いものであり、たとえ天皇や将軍が使う器であっても、書画のように純粋な芸術品として扱われることはなかったのではないかと思います。ある人物が登場するまでは。

その人物が、伝検公式テキスト13ページに名前が出てくる野々村仁清(にんせい)です。彼は歴史上初めて、自分が作った陶磁器に「仁清」という作者名を押印しました。陶芸作家としての名乗りであり、日用品を超えた作品として見てほしいという、芸術家としての意志が込められたものであったかと思います。

彼に続いた尾形乾山(けんざん)も自らの作品に自らの名を残しました。しかも乾山の場合は、普段は見えない高台裏ではなく、絵を描いた表面にまるで書画の銘のように落款を印した作品も目立ちます。ここに至って、芸術としての陶芸が、それを手に取る人々にも意識されたに違いありません。

仁清から100年後、ついに陶磁器から実用性を取り去り、鑑賞の対象として提示した人物が現れます。平賀源内です。彼は、表面に深いレリーフで図柄を表した源内焼の制作を指導し、これを木製の台の上に立てて人々に見せました。立てられたことで、源内焼の皿は食べ物を載せる器ではなくなり、ただ鑑賞して楽しむという純粋芸術性を獲得したのです。

野々村仁清と平賀源内が切り開いた純粋芸術としての陶芸は、日常遣いの陶磁器から金工、木漆工などにまで影響を及ぼし、今日の世界でもひときわ美しく多彩な日本の工芸をつくり上げるのに大きく寄与したのではないでしょうか。19世紀のイギリスのデザイナー、ウィリアム・モリスが主導したアーツ・アンド・クラフツ運動に先駆けること100年も200年も前に仁清や源内がいたという事実は、記憶されるべきことのように思います。


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