2024.11.14
コラム/エッセイ「多様なるジャパン」 第1回 土器文化
白洲信哉=文筆家、日本伝統文化検定協会副会長
豪華な装飾が施された火焔型土器
最終氷期後の急速に進んだ温暖化により、大陸から切り離され、定住を始めた縄文人。彼らが編み出した世界最古といわれる土器、その文様の変遷から日本版新石器時代を縄文時代と呼ぶ。かの四大文明のはるか前、約1万6000年前から3000年前までの1万年間以上もの途方もない長期にわたる独自の文明、土器文化が花開いたのだ。最盛期は読者もよくご存じの粘土状のひもを貼り付けた立体的で豪華な装飾を施した大型の火焔(かえん)土器や土偶が作られた縄文中期。これほど豊かな造形美を誇る器は世界に類例はないが、ではなぜ用途以上の過激な表現を施したのであろうか。
例えば青森県三内丸山遺跡は、縄文前期から中期まで約1700年間も継続した巨大集落だ。大人数がひと所に長期定住することで人間関係が濃密になると、共通したデザイン性のあるモノが仲間意識の証しとなっていく。縄文土器に地域差があるのも、各集落の自由な発想から生まれた文様美であり、「無文字時代」には、集団生活の伝達手段でもあった。その上、土器は料理道具としても画期的だった。深鉢の発明により肉や魚、木の実を煮炊きすることで温かい食べ物を食せるようになる。しかも生では食べられなかったものも、火を通せば灰汁(あく)が抜けて柔らかくなり、食材の幅も広がり、大型魚類の脂は貯蔵するなど、より多くの自然の恵みが土器の出現と共に得られた。つまり、食生活に大きな安定をもたらし、その日暮らしから解放された大切な生活道具だったため、縄文後期にはベンガラや水銀朱を塗った赤色の器が現れるなどますます呪術的感性が加わってきたのだ。
だが、縄文中期をピークに寒冷期に入り、主食だった堅果類の生産量は減り、人口は減少に向かう。富が減少し余裕がなくなればマインドも変化し、土器の装飾も弥生の後期にはシンプルに、何より稲作の普及により社会構造が大変化し、安定的に収穫を得るために計画をたてたり、秩序が求められたりするようになると、自由な発想が失われてくるのは世の常である。人口分布も東から西へ、また記紀の神話に代表される新たな技術をもたらした渡来人に縄文人が混ざり合い、鉄器や籾(もみ)をためておく壺など新製品が生まれた。大事なことは縄文と弥生時代は対立するものでなく、長期の古層を排除することなく生かして、不要なものには上書きしてきたことだ。土器の技術も須恵器と混ざり素焼きの器は備前などに引き継がれ、桃山時代に、楽焼がろくろでなく手捻りなのも、縄文へ回帰することで誕生したと言ったら言い過ぎであろうか。
白洲信哉(しらす・しんや)=1965年東京生まれ。細川護熙首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及に努め、書籍編集デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュースする。骨董・古美術専門誌月刊「目の眼」編集長(2013-2018年)。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主著『骨董あそび』(文藝春秋)/『白洲次郎の青春』(幻冬社)/『白洲家としきたり』(小学館)/『かたじけなさに涙こぼるる』(世界文化社)/『旅する舌ごころ』(誡文堂新光社)/『美を見極める力』(光文社新書)ほか多数。編書『天才青山二郎の眼力』/『小林秀雄 美と出会う旅』(新潮社)/『朱漆「根来」 中世に咲いた華』(目の眼)ほか。
カテゴリー: コラム/エッセイ