2025.12.25
白洲信哉の「多様なるジャパン」「多様なるジャパン」 第14回 神像
白洲信哉=文筆家、日本伝統文化検定協会副会長
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僧形八幡(個人蔵)
6世紀中ごろ仏教が伝来すると、斑鳩(いかるが)や飛鳥の地に寺院が建ち、仏像が輸入、鋳造されるようになる。人々は突如出現したきらびやかな異物に驚き、200年たったころ外来の文化に圧迫された僕らの魂がしびれを切らし爆発し、噴火山の如(ごと)く生まれた一つが神像だ。
深層文化の根っこは、本居宣長(江戸時代の国学者)が「可畏(かしこ)きもの」とした山に石や滝など、縄文以来培ってきた自然そのものをご神体としたアニミズム的信仰心である。三種の神器といわれる鏡、剣、玉や松など、遊行しているカミが降臨する依代(よりしろ)に加え、仏像に対するメイドインジャパンの偶像が彫られたのだ。我々祖先のお姿として親しみを感じるが、本来明確なお姿をもたない八百万(やおよろず)という多くのカミのお姿を表現するのは容易ではなかった。土地特有の産土(うぶすな)神のイメージにムラの長(おさ)的な人物や姫君の風貌を礎に仏師は想像力を膨らませ、仏像と遜色ない神像が誕生したのだ。
前回、聖武天皇の新都造営について少し触れたが、一代一都から恒久的都への完成期に、神宮の遷宮的常若(とこわか)の神道思想と恒久的仏教の国家運営が混交していく。8世紀中ごろ神社において神宮寺が建てられ、例えば神宮の伊勢大神宮寺に丈六(高さ約4.8メートル)の仏像が造られたり(続日本紀)、東大寺の手向山八幡のような大寺の中にカミが鎮護に迎えられたりする。天皇は遠く宇佐の地(現在の大分県宇佐市)に大仏鋳造のお願いをわざわざ遣わし、八幡神が上京し神仏習合の礎になる。僧形(そうぎょう)の八幡神像という誠にユニークなお姿のその時代に下る遺例はないが、平安時代以後、仏教の表現を通して僕らがこだわったのは先に根っことしたアニミズム的表現である。仏の形をまねてカミを表現したが、例えば落雷にあい倒木したご神木に、カミの姿を刻むことで怒りを鎮めると同時に、樹木に対する信仰の深さから材そのものにカミが宿ると節や根を残し木取りし、ご神体として具現化したのである。
神像に神宮寺などがなじみのないのは、明治御一新(ごいっしん)の神仏分離を発端とした廃仏毀釈(きしゃく)がきっかけだ。神像草創期の遺品である京都松尾大社の優美な一木等身大の坐像もそこの神宮寺に鎮座していたが、各地大社の神宮寺はその折りに撤去され、御正体(みしょうたい)も取り出されてしまう。だが、八幡大菩薩に代表される神と仏は表裏一体のデュアルな歩みこそが僕ら伝統文化の根幹なのである。国家神道という近代日本負の遺産に偏った視座にたってはならないし、そこに至る千年を超える遥(はる)かなる神仏世界こそ僕ら文化の結晶なのだ。
カテゴリー: 白洲信哉の「多様なるジャパン」