「和」を知る・「和」を楽しむ・「和」を伝える日本のスペシャリストになろう!

近藤宙時=日本伝統文化検定協会理事

写真左 三條若狭屋の祇園ちご餅(公式ホームページから)
写真右 鶴屋吉信の柚餅(ゆうもち:提供写真)

京都の人は「いけずだ(意地が悪い)」、「よそ者に冷たい」などと言われるのをよく耳にします。しかし、よそ者に対する京都人の冷たさは、類いまれな歴史を持つ町の文化・風土を次代に伝えなくてはならないという、半ば使命感のような意識のなせる業かもしれないと、「和生菓子特殊銘柄品」という言葉を知った時に思い始めました。

話は80年以上前にさかのぼります。太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)9月1日、「金属類回収令」という勅令が施行されました。国家総動員法の下、戦争遂行に必要な物資の不足を補うため、商家や家庭の鍋釜からお寺の鐘、国宝級の銅像に至るまで、ありとあらゆる金属類が「兵器に転用するから」と供出させられ、鋳つぶされました。

そんな狂気の時代にあって、お菓子は不用品・不急品の代表格だったでしょう。何せ、口にすれば無くなってしまう「消え物」の最たるものですし、ご飯と違い、生きていくのに必要かと問われれば、とても「はい」とは言えないしろものです。

金属類回収令の2年前には「価格等統制令」が施行され、和菓子を含む菓子類も農林省(現農林水産省)によって公定価格が定められていました。安い公定価格ではまともな材料が使えず、多くの和菓子屋が休業せざるを得なくなったという当時の事情は、朝ドラなどでも描かれたことがあるので、ご存じの方も多いでしょう。

しかも農林省は42年(昭和17年)8月13日付の告示で、菓子類に対してさらなる価格統制を発動しました。職人の美意識に育まれてきた和生菓子まで全国統一の規格が決められ、それに該当しない場合は第4項の「其ノ他ノ菓子」として一段と低い上限価格が設定されました。当然ながら、ますます多くの和菓子屋が窮地に追い込まれたのは想像に難くありません。

価格統制はいつまで続くか分からない。だとしたら、京都の誇る和菓子の製造技術が失われてしまうかもしれない―。失われた技術をよみがえらせることの難しさを京都の人たちは知っていたのでしょう。そんな危機感から、ある行動に打って出ます。

実は、この農林省告示には、第13項に「地方長官ニ於テ農林大臣ノ承認ヲ受ケ生産者ヲ指定シ特別ノ規格ヲ定メ製造シタルモノニ付別段ノ額ヲ指定シタルトキハ四(第4項)ノ価格ハ之ヲ適用セズ」という例外規定がありました。京都府はこれを根拠に、地元の和生菓子の中から、三條若狭屋の祇園ちご餅や鶴屋吉信の柚餅(ゆうもち)など、技術的にも特に価値が高く、後世に残すべき18種の銘菓を知事名で指定し、価格統制の枠外に置いたのです。それが和生菓子特殊銘柄品でした。

「戦時京菓子18種」とも呼ばれる銘菓の多くは、今でも当時指定された和菓子屋さんで求めることができます。京都の人たちが守ってきたこれらの和生菓子を味わうためだけでも、京都には訪れる価値があると思っています。