2025.10.23
宙ちゃんの「伝統文化一直線」宙ちゃんの「伝統文化一直線」 第21回 悲運の陶磁器産地
近藤宙時=日本伝統文化検定協会理事

水野敬子作・美濃焼黄瀬戸油揚手蕪図大皿(著者提供)
経済産業省が今年8月に発表した2024年の経済構造実態調査(2次集計結果)によると、陶磁器(和洋飲食器)の生産額(工場出荷額)は418億円。このうち、美濃焼の産地である岐阜県は224億円と過半を占めました。2位は波佐見焼で知られる長崎県の49億円、3位は世界的ブランドである有田焼の地元・佐賀県の48億円ですから、まさに他地域を圧倒しています。しかしながら、伝検の第1回試験では、陶磁器の生産額が最多の都道府県を問う問題が、正答率はいちばん低かったそうです。これには、美濃焼に3度も降り掛かった悲運が大いに関係しているように思います。
最初は、世界でも珍しい、「ひょうげた」変形の器で知られる織部焼を襲った悲運です。織部焼は技術力、生産力ともに当時から陶磁器産地として抜きんでていた美濃(現在の岐阜県東部)で焼かれました。もちろん、創出者である古田織部が美濃の大名であったことが影響していると考えられます。
織部焼はデザインの斬新さに加え、古田織部が当時第一の茶人であったことから、たちまちにして人気の陶器となりました。ところが、1615年、大坂夏の陣を前にして徳川家康から切腹を申し付けられたことで、織部焼も禁忌の器となってしまい、売ることさえはばかられるようになりました。このことは、陶磁器の商いの中心地であった京都・三条通で、1989年から2000年代初頭にかけて完品の織部焼が大量に出土したことから証明されました。産地であった美濃にとっては、青天のへきれきとも言える大打撃であったろうことは想像に難くありません。
この苦難を乗り越えるべく、美濃焼の産地は白釉(はくゆう)を掛けた太白(たいはく)と呼ばれる陶器などを量産し始めますが、これらの陶器は「美濃焼」ではなく「瀬戸物」としてしか全国に流通できませんでした。というのも、徳川幕府は秀吉の息がかかっていた東濃地方に大藩を置かず、焼き物の出荷は全て尾張藩の領地である隣の瀬戸(現在の愛知県瀬戸市)を通すように仕向けたのです。この第2の悲運は、「瀬戸物」という一産地の名称が陶磁器全般を指すようになった原点でもあります。
「美濃焼」の名が復活するのは、1835年に東濃地方の庄屋であった西浦円治が中心となって多治見に「美濃焼物取締所」を設置するまで待たなければなりませんでした。西浦円治はこの時、およそ1000両(現在の貨幣価値で1億円相当)を使ったといわれています。この頃には磁器の量産化も果たしました。明治の代を迎え、五代西浦円治が開発した美しい釉下彩(ゆうかさい)の磁器がセントルイス万博で金賞を受賞するなどして、美濃焼は全国、そして世界へと販売されていきます。
最後の悲運は、昭和の陶磁器研究家小山富士夫が、他の産地に比して歴史的にも全く遜色がない美濃焼を「日本六古窯」に含めなかったことです。一説には、なじみがあり過ぎた美濃焼以外の産地を紹介したかったからともいわれていますが、晩年には美濃に窯を開いたほどの小山が「七古窯」と命名しなかった真意は分かっていません。ともかく、この六古窯という総称が幅を利かせていくに従い、美濃焼は隅に置かれがちになっていきました。
その圧倒的とも言えるシェアに比べて、なぜか美濃焼の知名度が低いのは、ここに挙げた3度の悲運が大きく影を落としているとみていいでしょう。伝検の受験をお考えの皆さん、冒頭で触れた問題が出た時は、くれぐれもお間違えなきようお願いいたします。
カテゴリー: 宙ちゃんの「伝統文化一直線」